八王子城跡 所在地:東京都八王子市元八王子町 探索日:2007年6月1日 1590年に八王子城は豊臣方の軍勢により落城。 落城の間際に城内の婦女子達は自ら死を選んだ。 短刀で自らの首を突き、御主殿の滝に身を投げた。 御主殿の滝から流れる川は三日三晩赤く染まったと言う。 単独で闇に包まれた城跡に潜入、探索する。 |
1590年(天正18年)6月23日。
八王子城は豊臣秀吉の軍勢、上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの一万五千の軍に攻められた。 当時、城主の北条氏照と家臣の殆どは小田原の合戦に出ており、城内には僅かな家臣と婦女子しかいなかった。 急遽、領内から農民や職人、その家族らを呼び集め城内に動因したが… 婦女子・農民らを合わせても千人程が籠城したに過ぎなかった。 一万五千の軍勢に対抗する術は無く、僅か一日で八王子城は落城してしまう。 当時、籠城戦は籠城側を降伏させて開城させるといった敵味方の人命を優先する戦法が主流だった。 しかし、八王子城での戦は見せしめの意味もあった為、降伏する事も許されず徹底的に叩かれた。 不幸にも戦に巻き込まれた多くの非戦闘員が無残な死に方をした。 捕まった婦女子達は首を刎ねられ、ある目的から首だけが小田原方面へと運ばれた。 同時期に小田原城の攻防、"小田原の役"と言う豊臣軍と北条軍の大規模な戦が繰り広げられていた。 八王子城から運んだ首を北条軍の前に晒して士気を下げるといった非人道的な知略が遂行された。 北条軍には八王子城に妻子を置く将兵も多く、絶望と悲しみにより士気を失った将兵も少なくなかった。 非人道的な知略を使わなくてはいけない程に重要な戦だったのである。 家族の前に首を晒されるくらいならと、婦女子達は自らの喉を短刀で突き、その身を御主殿の滝に投じた。 小田原で戦う家族の足手纏いになりたくないと言う想いが彼女達に自刃を決意させたのだろう。 死は免れない状況で最期の最期まで家族の事を想い選んだ道なのである。 御主殿の滝から流れる川は彼女達の血で三日三晩赤く染まったと言う…。 少々長い前置きになったが… 何故、彼女達が自刃して滝に身を投じたのか。 けして戦に負けたからでは無い。 我が家族を愛するが故に取った行動なのである。 そういった彼女達の心境も交えて後世に語り継がれて欲しいと思う。 トップの写真、実は彼女達の慰霊碑なのだが… 昔の人が作り上げた手間の掛かっていない無骨な慰霊碑だ。 お世辞にも供養になっているとは言えない。 慰霊碑の有り方一つでこの一帯は大きく変わるはずである。 少なくとも現地を訪れた私は彼女達の供養は終わっていないと感じた。 さて、実は今回の探索、一切の下調べをせずに挑んだ。 先に述べた話は私の主観も含め探索後に得た知識である。 当日、私は用事で八王子の近くまで来ていた。 夜も更けてきて空を見上げると綺麗な満月。 満月の夜は心霊現象の発生率が飛躍的に高まると言われている。 探索には打って付けと考え、以前より行こうと思っていた八王子城跡に向け車を走らせた。 その後の調べで分かったのだが、八王子城が陥落したのは6月、今回の探索月も6月…。 これ以上の条件は無いだろうと言う探索であった。 「婦女子らが滝に身を投じ、その血が川を三日三晩赤く染めた。」 その話のくだりは知っていたが、何処の滝かはおろか滝の名前さえも把握していなかった。 特に滝に関する案内も発見できず、夜の城跡には誰もおらず聞き込み調査もできない状況だった。 しかし、今回の探索中、私は姿無き者の声に導かれるように行き着いた場所がある。 そう、その場所こそが、いわく付きの滝、御主殿の滝だったのだ…。 その滝の手前には立ち入り禁止の札があるので、何も知らなければ足を踏み入れる事の無い場所。 その声の導きが無ければ絶対に行き着かなかった場所である。 何も知らなかった私がそこに行き着いたのは、はたして偶然だったのだろうか…。 情報が無い中での探索だったのだが、その声のお蔭とも言えるだろうか… 結果的には滝も慰霊碑も写真に納める事が出来たのである。 姿無き者の声については探索レポートの中で話したいと思う。 |
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