この話を語るのに私は少々戸惑いがある。
正直、私は呪いなんて滅多にあるものだと思っていない。 しかしこの話には呪いめいた要素がある。 この話を公開して私自身もしくは読者の皆さんに異変が生じた場合はすぐに公開を中止しようと思う。 そういった危険性を予めご了承を頂いた上でお読み頂ければ幸いに思う。 【ここから心霊体験談!】 数年前まで私はある出版社に勤めていた。 その出版社はそこそこ名前の知れた出版社だった。 社名を明かすのは少々問題がある為にここではS出版とさせて頂こう。 S出版はいくつか有名誌を出版していて表向きでは経営も上手くいっているように見えた。 だがS出版は二年前にまさかの倒産。 倒産時、私は既に退社していたのでその事実を新聞で知った。 倒産した理由は経営不振との事らしい。 しかし私はこの倒産にはある出来事が大きく関与しているのではないかと睨んでいる。 これはS出版に私が勤めていた今から五年前の話だ。 当時、私は右も左も分からぬ入社ホヤホヤの新人だった。 小汚いオフィスに所狭しと並べられたデスク、山積になった資料の束。 良い印象の持てる職場では無かったが出版社はどこでもこんなものだろうと思い差ほど気にせず仕事に励んだ。 私が入社してから2ヶ月が過ぎ職場の雰囲気にも少しずつ慣れ始めてきていた矢先の出来事だった。 朝礼で社長から社員全員に事務所を移転するとの内容が告げられた。 一ヵ月後には事務所を移転させるとの事だ。 僅か一ヶ月後に移転とはまた急な話だと思った。 突然の事務所移転の知らせなのに関わらず殆どの社員が興味が無いような表情をしていたのが印象的だった。 しかし移転と言っても隣駅にあるオフィスビルへの移転だ。 隣駅なら通勤時間の影響も殆ど無いから安心して無関心な表情してるいるのだろう…とその時は思っていた。 隣駅という目と鼻の先に移転するのだから今の事務所より広くて奇麗なオフィスになる事を私は期待していた。 立地的な差は殆ど無いのだから移転するメリットは広さ、綺麗さしか無いと思ったからだ。 そして一ヵ月後、無事に事務所の移転が終わったのだが… 私の期待は大きく裏切られた。 以前よりも小汚く、そしてより狭いオフィスに事務所は移転したのだ。 移転の理由を知る術も無く私は違和感を感じつつも新人と言う立場をわきまえ仕事に励み続けた。 それから約半年の月日が流れた。 私は仕事にも慣れ、慕う先輩もでき、仕事・人間関係ともに充実し始めてきていた。 そんなある日の朝礼の事、事務所を移転してから半年しか経っていないと言うのに何とまた社長から事務所の移転が社員達に告げられたのだ。 さすがに私は驚いた。 しかし社員達は相変わらず無関心な表情を浮かべていた。 この時、初めて私はこの短期間の事務所移転は今に始まった事じゃないのだと気付いた。 そして一ヵ月後、新たな事務所への移転が終わった。 場所は以前の事務所とは二駅隣、外観・広さ共に以前の事務所以下。 私はある不安を抱いた。 「S出版は経営がやばいのではないか?」 しかし仮にそうだとしても違和感は感じずにはいられなかった。 短期間で事務所の移転を繰り返す方が明らかに資金面では負担になると思ったからだ。 それに私が知る限りではS出版の経営はそこそこ上手く行っているはずだ。 考えれば考える程、私の疑問は深まるばかりであった。 暫く経ったある日の昼休み、私は先輩と二人で事務所から程近い場所にある小さな食堂で昼食を取っていた。 私は先輩に自分の疑問を打ち明ける事にした。 その先輩は四十代半ばの年配の方で普段の会話から察するに社内事情に詳しいと思ったからだ。 私は間を見計らって会話を切り出した。 「あの…何だか短期間で事務所の移転が行われているみたいですけど…何か事情があるんですか?」 私がそう言うと先輩は一瞬だけドキっとした表情を見せた。 「さぁ…?」 先輩は何も知らないという素振りをするが一瞬見せた表情からしても何か知っているみたいだ。 ここで聞き出さなくては当分の間はこの会話を切り出す機会が無いかも知れない。 それに場合によっては私自身にも大きく関わってくる事だ。 私は無理を承知で先輩に真実を迫った。 暫く先輩は拒否を続けたが粘った甲斐もあってやっと首を縦に振ってくれた。 先輩は眉間にシワを寄せて私を睨みながら言った。 「絶対に誰にも言うな。」 「…はい。」 先輩のいつになく真剣な表情に私は少したじろぎながら頷いた。 そして先輩の口から発せられた次の言葉は私にはすぐに理解し難い内容だった。 「染みだよ。」 意外な言葉を前に私はただ聞き返すしか無かった。 「…シミですか?」 「ああ、壁の染みだ。」 何が何だか分からない。 今、私と先輩は事務所の移転について話をしているのではないのか。 染みと事務所の移転がどう関係してくるのか。 もしかして先輩に茶化されているのか…などと不信感さえも抱いた。 先輩の意外過ぎる言葉に私は返事をする事すらできずに硬直してしまった。 しかし先輩は淡々と会話を進めた。 「染みがな、社長室の壁にあるんだよ。」 「……?」 「染みが移転しても移転しても社長室の壁に現れるんだ。その染みがだんだん大きくなっていくんだ…。」 先輩は少し声が震えていたがそのまま話を続けた。 「俺もその染みを見たんだが…あれは…きっと怨霊か何かだ…。人の形そのものだった…。」 先輩の話を聞き私の頭にある記憶がよぎった。 誰もいないはずの社長室から女性の声が聞こえてきたり、コツコツと誰かが歩く足音が聞こえたり、時にはドスンと何かを落としたような音が聞こえたり、そんな事が入社してから何度かあったのだ。 確かに事務所で得体の知れない何かの気配を感じる事はあったがまさかそれが移転と関係しているとは…。 私は先輩にお礼を言い食堂を後にして職場へと戻った。 それにしても話をしている先輩の後ろにまるで黒い煙のようなうごめく影が見えていたのが気に掛かった。 それ以降、その先輩とはその染みについて話をする事は無かった。 その話はしない方がいいと思ったからだ。 話をまとめると… 事務所を移転しても移転しても社長室の壁には新たな染みができる。 その染みは日が経つにつれて大きくなり次第に人の形を成していく。 そして染みがある程度の大きさになったら逃げるように事務所を移転する…と言ったところだろうか。 信じ難い話ではあるがそれが事実ならこの不可解な短期間での事務所移転も説明が付かなくは無い。 先輩が「誰にも言うな。」と言ったようにこの話が社内に広がるのはあまり宜しくない。 社員ならともかくアルバイトがこんな話を聞いたら次の日から職場に来なくなる恐れがあるからだ。 私は単独で可能な限り真相を確かめようと思った。 まずは例の染みをこの目で見ない事には何も始まらない。 新しい事務所に移転してから4ヶ月が過ぎようとしていたある日の事、ついにチャンスが訪れた。 終電も終わり私は一人、仕事に追われ事務所に残されていたのだ。 翌朝まで残業をさせられる事は何度かあったが私一人だけが事務所に残っているという状況は入社して以来、この日が始めての事だった。 朝までに仕上げないといけない仕事があったがそんな事よりも私は例の染みの事が気になって仕方が無かった。 深夜の二時を過ぎたくらいだろうか。 私は意を決し、社長室の壁を見に行く事にした。 できる事なら日中の時間帯に染みを拝みたかったが社内に人が溢れる時間帯にそんなチャンスは訪れない。 深夜と言う時間帯はできれば避けたかったが早朝には人が来てしまうので今しか無いと思った。 社長室への扉は私のデスクからも見える位置にあるが入社してから一度も入った事が無い。 私だけで無く社長以外の社員が社長室を出入りする姿を見る事は滅多に無かった。 私は社長室の扉の前に立ちノブに手を掛けた。 幸い、鍵は掛かっておらず容易に社長室へ侵入する事ができた。 社長室に入った瞬間、何か得体の知れないものに自分の体を覆われたような感覚がした。 まるで冷蔵庫の中に入った時のように冷気が自分の体を覆うような感覚だ。 今すぐここから離れたいと言う感情を「今しか無い」という感情で押し殺した。 窓から入り込む隣のビルの灯りを頼りに照明のスイッチを探す。 スイッチはすぐに見つかり私は照明の明かりを付けた。 照明で照らし出された社長室の内装はあまりにも飾りっ気が無く驚かされた。 装飾品と呼べるようなものは何一つ無く、所々に引っかき傷の付いた薄汚い木製の机と椅子が窓側に、煙草のヤニで変色した年代もののソファーが部屋の中央にポツンと置かれているだけで客人を招くには不向きな部屋だ。 私は例の染みを確認する為に社長室の壁を見渡したが染みらしきものは見当たらない。 しかしすぐに怪しげなところを発見した。 明らかに社長室とは不釣合いな等身大の壁掛け鏡だ。 木製の枠に鏡がはめ込まれた三千〜五千円程度かと思われるどこにでもある地味な壁掛け鏡だ。 「この鏡の裏の壁に染みが…?」 私はそう思い恐る恐る鏡を外した。 その瞬間、私は信じられない光景を目の当たりにしたのだった。 私の思惑通り染みはそこにあった。 まるでどす黒く変色した血痕のような染みが地面から始まり私の胸の高さまで石の壁からにじみ出ていたのだ。 私は自分の目を疑った。 その染みの形はまさに人の形そのものだ。 見ようによっては人の形に見えなくもないとかそういう次元では無い。 まさに人の形そのものだったのだ。 私の目には髪の長い女性が赤ん坊を胸に抱いている姿に映った。 今にも動き出して壁からにょろりと出てきそうな程にリアルだった。 私はすぐさま自分のデスクに戻りカメラを持ち出した。 もちろんその染みを撮影する為だ。 もしかしたら私の思い込みが染みを人の形に見せているに過ぎないのかも知れない。 そして再度、この染みを見る機会があったのなら以前と大きさや形を見比べなくてはいけない。 その為にはこの染みを写真という形で残したかったのだ。 私はカメラを手にして社長室へ戻った。 そして角度や距離を変えて壁の染みを何枚か撮影した。 撮影をしている最中も私は心底脅えていた。 壁の染みが今にも私に襲い掛かってきそうに思えたからだ。 染みがフラッシュで照らされた瞬間、顔の部分が微笑を浮かべているようにすら見えた。 フィルム一本丸々使い切るまで撮影を続けた。 そして撮影を終えた私は逃げるように社長室を後にした。 現像は会社直属の写真屋に安く依頼できるがもちろんそんな事はしない。 自分の家の近所にあるコンビニにフィルムを現像に出した。 翌日には写真が現像されたので自分の家に持ち帰りじっくりと見る事にした。 やはり髪の長い女性が赤ん坊を抱いている姿に見える。 固定概念を捨てて何度も見直しても私にはそう見えるのだ。 この写真を社内の人はもちろんS出版とは関わりの無い友人にさえも見せるわけにはいかないと思った。 この染みの真相も分からない状態で不用意に他人を巻き込む事は避けたかったからだ。 そこで私はある事件で知り合った霊能者の人にこの写真を見せる事にした。 私の中ではその霊能者は人柄、霊能力ともに最も信頼できる人間の一人だった。 その霊能者であれば万が一、何かに巻き込まれても自らを守る術を知っていると思ったからだ。 何よりあの恐ろしい姿の染みと遭遇して目に見えない恐怖に支配されてしまった私をその霊能者なら解放してくれるのではないか、そしてこれから私はどうすれば良いのか示してくれるのではないかと思ったからだ。 翌日の夜、私はその霊能者の家に訪れた。 その霊能者の家に訪れるのは今回で三度目なのだが相変わらず大きな家だ。 在来木造の風格と威厳を漂わせる日本伝統の住まいと言ったところか。 その霊能者は八十歳を超える老婆なのだがハッキリした口調で的確なアドバイスをしてくれる。 年齢による衰えを感じさせない彼女の言動にはよく驚かされる。 高齢なのに関わらず最新の話題に敏感で芸能界の話などで盛り上がる事もあるくらいだ。 私の印象では好奇心旺盛な元気なお婆ちゃんといった感じだった。 私は持参した写真を彼女に見せた。 彼女にはこの写真が何の写真であるかは一切伝えていない。 その写真の染みを暫く眺めた後に彼女はこう言った。 「30代前半の女性と赤ん坊だね。」 やはり私の見解は間違っていなかったようだ。 そのまま彼女は話を続けたが彼女の口から出た次の言葉は衝撃的なものであった。 「30代前半の女性と、その赤ん坊。ただ…赤ん坊の方は死んでるね。この女性、つまり赤ん坊の母親も今じゃもう死んでいるんだけどね、私が言いたいのはこの母親が抱いている赤ん坊は既に息をしていないって事さ。」 つまり死んだ赤ん坊を胸に抱く母親…と言う事らしい。 「赤ん坊の方はね、頭が割れているよ。誰かに殴られたのか、どこかから落ちたか…。」 彼女は何のためらいも無くえげつない発言をする。 私は彼女の言葉を聞いてある事を思い出した。 誰もいないはずの社長室から女性の声が聞こえてきたり…、誰かが歩く足音が聞こえたり…、ドスンと何かを落としたような音が聞こえたり…。 ドスンと何かを落としたような音…。 まさか…まさか…、赤ん坊を落とした音なのか…? 私は自分のあまりにも恐ろしい想像に鳥肌が立った。 「あんたはもう足を踏み入れちまってるよ。そこまで踏み込んでしまったら残念ながら私にはどうしようもする事ができない。この母親の怒り、悲しみは尋常じゃないからね。下手したらあんたの命が危ういよ。気を付けな。」 彼女はそう言うと少し残念そうな表情を見せ私を玄関まで導いた。 私の考えは甘かった。 彼女に会って話せば何か一つくらい解決策を示してくれると思っていた。 しかし実際は何一つ解決策を示されず彼女と対面した後の私は恐怖心だけがただ増していたのだ。 だが彼女に会わなければ私は危機感を抱く事をせずに取り返しの付かない行動に出てしまっていたかも知れない。 そう考えると彼女は私に警告と共に重要な道標を示してくれたのかも知れない。 それから暫く私はこの件に関して何一つ行動を起こさなかった。 彼女に警告を受け慎重になっていた事もあるが実は何をすれば良いのか分からなかったのかも知れない。 それから二ヶ月くらい経っただろうか。 新しい事務所に移転してからもうすぐ半年が経とうとしている。 例により事務所の移転の話がされるかされないかの時期だ。 「そろそろ三度目の移転かな…?」 私だけでなく殆どの社員が内心ではそう思っていたのだろう。 ちらほら社員同士でもその話が持ち上がるようになっていた。 しかし壁の染みの事については殆どの人は知らないらしく社員同士の会話の中で一度も耳にする事は無かった。 ある日、私が帰宅するとあの霊能者から留守番電話にメッセージが残されていた。 「そもそもの原因を探る分にはあんたに危害は無いはずだよ。何か分かったら連絡しておいで。」 十秒足らずの簡単なメッセージだったが私にとってはとても有難い言葉だった。 踏み出す事を恐れて何もできなくなっていた私を軽く後押ししてくれるような、そんな優しいメッセージだった。 その日から私は例の染みについて調べ始めた。 それまでは考える事すら恐れていた私にとって彼女のメッセージはとても心強いものとなったのだ。 まず私はS出版がこれほどの短期間での移転を繰り返すようになった時期から調べる事にした。 直接社内の人に聞かずとも様々な資料にS出版の住所は刻まれているので調べるのは容易な事だった。 調べた結果、短期間での移転を繰り返すようになったのは私が入社するちょうど二年前だと言う事が分かった。 私が入社する二年前もしくはそれより以前に何かがあったのか? 仮に例の染みが祟りや呪いの類だとしたら何か発端になる出来事があったはずだ。 しかし私が調べた限りでは呪いや祟りの元凶になりそうな悪い噂や過去の出来事を見つける事はできなかった。 そこで私はS出版が過去に出版した雑誌などの書物を二年前のものから過去にさかのぼり読んでいく事にした。 小説などの類は読むのに時間が掛かるので週刊誌や月刊誌、特集誌などを中心に片っ端に読んでいった。 読むと言っても殆どの雑誌は写真や記事のタイトルを見れば大体の内容が掴めるので軽く読み流す程度だ。 とは言うものの相当な量の雑誌が出版されているのでかなりの根気が必要だ。 私が入社する二年前〜三年前に出版された雑誌を全て読み尽くしたが元凶になり得そうな記事は何もなかった。 そもそも出版された雑誌の中に手掛かりがあるとは限らない。 仮に手掛かりがあったとしても見過ごしてしまう可能性だってある。 取り合えず入社する三年前〜四年前に出版された雑誌を見て手掛かりが無ければ別の方向を探る事にしよう。 手掛かりが見付かる見込みは無かったがただひたすらに古い雑誌を読み漁っていった。 しかし探していたものは意外にもあっさりと見付かったのだ。 その雑誌は私が入社する三年三ヶ月前に出版されたものだった。 各地の旅館などの紹介をテーマにした情報誌のとある一ページにそれはあった。 そのページは京都のある旅館を紹介したページなのだが… そこにはその旅館の客室を撮影した写真が掲載されていた。 そしてその旅館の客室の壁には社長室で見たあの染みと同様の染みがくっきりと浮かび上がっていたのだ。 その写真を始めて見た時は一瞬、壁の前に誰かが立っているのだろうと勘違いしてしまったくらいに壁の染みは等身大の大きさにくっきりと浮き出ていた。 「この写真が元凶なのか…?」 私はこの雑誌を家に持ち帰り社長室で撮影した壁の染みの写真と見比べる事にした。 そして帰宅して雑誌の写真と見比べようと社長室で撮った写真を見た瞬間、私は恐怖に陥れられた。 社長室で撮影した写真に写った壁の染みが以前より明らかに大きくなっていたのだ。 私の思い違いでも記憶違いでも無い。 そんな信じられない現象を私は目の当たりにした。 この日以降、私の身の回りで黒い煙のようなうごめく影を頻繁に目撃するようになる。 会社にいても自宅にいても常に誰かに着けられているような見られているような…そんな嫌な感覚があった。 その一週間後、私は会社の階段で足を踏み外し膝に五針縫う怪我を負った。 これが偶然なのか祟りなのか、はたまた呪いなのかは知る由も無い。 ただ事故当時、私の背中の方から女性の声が聞こえたかと思った瞬間、誰かに背中を押されたような感覚がありその直後に階段から転げ落ちたのだ。 もちろんその時、私の後ろには誰もいなかったのだが。 私が階段から落ちた更に一週間後、壁の染みについて教えてくれた先輩が同じく階段から転倒する事故があった。 頭と膝を数針縫う大怪我だったそうだ。 とても偶然とは思えなかったが先輩と染みの話になる事は避けたかったのでこの事故には深入りしない事にした。 先輩は歳も歳なので後遺症などを心配したががその点は大丈夫だろうとの医者の報告を受け一先ず私も安心した。 そして膝の怪我の痛みがほぼ無くなった頃、私は有給を貰い新幹線で京都へ向かった。 例の雑誌で紹介されていた旅館へ行く事が目的だ。 しかし私が事前に調べた限りではその旅館はもう存在しないようだ。 雑誌に掲載されていた電話番号には繋がらず旅館名で検索しても該当する旅館は見付からなかったからだ。 それでもそこに行けば何か情報が手に入ると思ったから私は京都へ向かった。 京都に着いた私は雑誌に記載された住所を元に旅館跡を探す。 雑誌によるとその旅館は京都駅からバスに乗って向かうK郡の小さな温泉地にあるらしい。 K郡の温泉地に到着した私は電話でタクシーを呼びその旅館のあった住所まで行く事にした。 「すみません、今から言う住所に行って貰っていいですか?」 タクシーの運転手のおじさんは地図を広げた。 「はい、どこですか?」 私は住所を伝えた。 住所を聞いたタクシーのおじさんは不思議そうな顔をしている。 「ここって数年前まで旅館があったところだよね。周りに民家は無いけど何でまたこんな所に?」 とても返答に困る質問だった。 私自身、何の為にそこへ行くのかなんて分からない。 ただ漠然と行かなくてはいけないと思うから行くだけだ。 質問には答えられなかったが取り合えず目的地を目指してタクシーを走らせて貰った。 タクシーのおじさんの話によると旅館が廃業になったのは四〜五年前の事らしい。 雑誌で紹介されてから間も無く廃業になったと言う事になる。 タクシーに乗ってから十五分程が過ぎただろうか。 私を乗せたタクシーは目的地に着いた。 「お客さん、死なんといてや。」 心配したのか冗談なのかタクシーのおじさんは私を降ろす間際にそう言った。 そしてタクシーは来た道を戻っていった。 状況が状況なだけにおじさんが言った冗談は少し私の不安感を煽った。 当然だが私はここに死にに来たわけでは無い。 「生きて帰るぞ!」 別に命の危険が迫っているわけじゃ無いとは思うのだが取り合えず私は気合を入れた。 時間は夕方五時を過ぎた頃だ。 夏場なので日が沈むまで二時間は残されている。 目的地に着いたもののタクシーのおじさんが言っていたように何も無い場所で見渡す限りの草原しか無かった。 旅館が立っていたと思われる土地にはほんの少しの瓦礫が残っている以外は普通の草原と化していた。 その近くには川が流れていたので取り合えず私は川辺の方に降りる事にした。 とても綺麗で澄んだ川だった。 私は川辺に座り込み川のせせらぎを聞きながら草原と少しずつ沈みゆく太陽を眺めていた。 東京での生活で溜まった毒素が体から抜けていく感じだ。 どのくらい時間が過ぎただろうか。 私は今から何をすれば良いのかも分からず夕焼けをただ眺めていた。 「俺、ここに何しにきたんだろう…。」 空や川、森、草原、全てが徐々に赤く染まりゆく世界を眺めながら身も心も自然に委ねて感慨にふけっていた。 と、その時、私の背後から何か得体の知れない気配を感じた。 とっさに振り向いた私の目の前には赤ん坊を抱いた女性が立っていた。 突然の出来事に私はその異様な光景を頭で理解するのに数秒を要した。 髪の長い女性、そして胸に抱かれた赤ん坊…そう、壁の染みの女性と赤ん坊だ! 夕日に照らされた赤ん坊が異様に赤い。 いや違う、赤ん坊の頭からは大量の血が吹き出ており赤ん坊の顔や全身を赤く染めていたのだ! そしてその赤ん坊を抱いた母親と思われる女性は胸に抱いた赤ん坊を見て大粒の涙を流していた…。 その光景はとても恐かったがとても悲しかった。 私の目にはいつの間にか涙が溢れていた。 恐くて泣いたわけでは無くその光景があまりにも悲しくて泣いていたのだと思う。 「大丈夫ですか?」 もちろん相当な恐怖心もあったのだが私はほぼ無意識の内にその女性にそう問い掛けていた。 そしてその女性が何かをボソリと呟いたかと思った瞬間に赤ん坊と共に私の目の前から煙のように消えていった。 気が付くと完全に日も暮れ辺りは闇に包まれていた。 この体験が夢だったのか現実だったのかは今でも分からない。 ただ夢であれ現実であれ私がその光景を見せられた事には変わりが無いだろうと思った。 その後、私はタクシーを呼び京都駅に戻り帰路へと着く事にした。 帰りに乗ったタクシーも行きのタクシーと同じ運転手さんだった。 タクシーのおじさんは不思議そうな顔をしていたがちょっと安心したかのような表情を見せてくれたので嬉しかった。 他人ながらも私の身を少しでも心配してくれた事はやっぱり嬉しい。 心無しか最近まで感じていた肩の重みが無くなったような気がした。 東京に着いてからバックの中を見てみると京都に持っていった雑誌と写真とネガが入った封筒が無くなっていた。 ほんの数回しか出し入れをしていないのでどこかに落としたとは考え難かったがあまり深く考えない事にした。 実際のところ、写真の処分に困っていたのでこういった形で写真が手元から無くなった事は幸いとも言えた。 しかしそれらの写真が誰かの手に渡ってしまっている可能性がある事を考えると少し心残りではある。 それから約一ヵ月後にS出版ではまた新たに事務所の移転が告知され、それを機に私はS出版を退社した。 S出版を退社してからは私の身の回りではこの染みに関わる事は何一つ起きておらず耳にする事も無くなった。 平穏を取り戻した私はお世話になった霊能者にお礼を言うために連絡を取った。 その時に彼女が言った最後の言葉が今でも気掛かりだ。 「全ての世界は繋がっとるでの、いつでも連絡してきなさい。」 それから一年後に彼女はこの世を去った。 また彼女と連絡を取る日が来ると言うのであろうか。 私が退社した後もS出版は倒産するまで移転を繰り返したようだ。 この話はまだ終止符が打たれいないのかも知れないがこの先、できるならば関わらない事を願う。 私の前に姿を現した血塗れの赤ん坊を抱いた女性が消える間際にボソリと呟いた言葉。 私にはこう聞こえた。 「私が悪いの…だけど誰かを呪いたい…」 |