蛞蝓女


かれこれ二十年近くも前になる。
当時の私は小学生だった。
毎年お盆になると家族で曾祖母の田舎に訪れた。
曾祖母の田舎は山に囲まれた村で人口二百人程度の小さな村である。
店は村全体で駄菓子屋と床屋と小さなスーパーが一件ずつしか無い。
過疎かと言われるとそうでも無く昔から人の少ない村なのだ。

あるお盆、私は曾祖母から曰く付きの話を聞かされた。
どういう流れで曾祖母がその話をしたのかは覚えていない。
他言するような話でも無いと思うのだが…
何故か曾祖母はその話を私にした。


時は昭和十年頃。
当時の曾祖母は二十歳。
嫁ぐ形でこの村にやって来た。

山に囲まれ人口の少ないこの村は閉鎖的な考え方が根強かった。
親戚が集って出来たような村なので他所者には冷たかったのだ。
曾祖母は嫁いで来た立場なので新しい家族として厚く持て成された。
要するに、嫁ぐ形以外でこの村に入ってくる者はまずいなかった。
余所者には冷たい分、村人同士の絆はこの上なく強かった。
元々は余所者である曾祖母がその一心同体の村の体質に馴染むには時間を要した。


さて…
この村には曾祖母が嫁ぐ以前から空家になっている家があった。
もう十年近くは人が住んでいないとの事らしい。
売りには出しているものの、ある事情から買い手が見つからないのだ。
この閉鎖的な村に住もうなどと考える人間自体がまずいなかったと言うのも一つの理由だが…。
それでも幾度かはその家の購入を検討しに訪れた者もいるらしい。
そういった者は決まって老年の独り身で、人里から離れた土地でひっそり余生を送ろうと考えてる者だった。
人との交わりを避ける事を望んでいる者にとってこの村の閉鎖体質はむしろ好条件だったのだろう。
しかし、その家の持ち主から”ある事情”を聞かされた途端にその話は無かった事になる。

村人達はその家を蛞蝓(なめくじ)屋敷と呼んでいた。
その家は蛞蝓が大量発生する事で村では有名だったのだ。
それを伝えずに騙して売れば、後でどんな恨みを買うか分かったものでは無い。
家の持ち主は購入を希望する者に包み隠さず事実を伝えた。
流石に村人達から蛞蝓屋敷と呼ばれている事までは伝えなかっただろうが。
蛞蝓が出るのは家の外だけでは無い。
家の中の台所、御手洗などの水場だけに限らず、柱や壁、畳、廊下…
ありとあらゆる場所で蛞蝓が這い回っているらしい。
蛞蝓屋敷は森の鬱蒼とした場所に建っていて、日中でも殆ど日の差し込まない場所だった。
更に湿気の多い土壌に建っている為に蛞蝓が大量に発生するらしいのだが…。
しかし、それらの理由を持ってしても説明がつかないほど大量の蛞蝓が異常繁殖していた。
如何に戸締りをしっかりしようと必ず家の中に蛞蝓が出るらしい。
体長が大きなものでは十センチはザラにあろうと言う蛞蝓も出たと言うから常人はまず耐えられない。

普通ならそんな家は空家になった時点で取り壊すところだが…
その時代の農村の土地などタダ同然のようなもので、お金を掛けてまで取り壊す意味は無かった。
立地の悪い場所の空家などは自然倒壊するまで放置される事も珍しく無かった。
それなら倒壊するまでは取り敢えず売りに出しておこうと持ち主は考えたらしい。
しかし、そんな蛞蝓屋敷に住みたがる人間は現れず、かれこれ十年近くは空家だったらしい。


曾祖母が村に嫁いでから暫く経ったある日。
そんな気味の悪い蛞蝓屋敷が、余所者に売れたと言う話が村中に広まった。
こんな田舎村に、あんな家に、他所から来てまで住む変わり者がいるのかと皆が疑った。
しかし、その話は事実だったようで、暫くしてその家に他所からの移住者が住み始めた。
その者は三十代半ばの女性で独り身、嫁ぐ形でも無く、村としては異例の移住者だった。
しかも、そんな家に女一人で住もうと言うのだから奇妙な話である。
何年かすれば誰かしらの家に嫁ぐのだろうと村の誰しもが思った。
夫婦で移住して来るなら問答無用で冷たくするところだろうが…
その女性は独身、いつかは親類になる可能性が十分にある。
大半の村人達はその女性を快く受け入れるつもりだったらしい。
しかし、その女性の容貌を見て村人達の考えはがらりと変わった。

その女性、三十代半ばと言うが、年齢不詳と言った感じだったと言う。
四十代にも見えるし、五十代にも見える。
要はどちらかと言うと老けて見える女性だった。
栄養失調なのか身体は酷く痩せ衰え、肌はガサガサに乾燥していたと言う。
彼女はその乾燥した肌を常にボリボリと掻き毟っていた。
小声で言葉も聞き取れない、表情も乏しく何を考えているか得体が知れない。
たまに意味も無く薄気味の悪い笑みを浮かべる女性だった。
まるで生きた幽霊とでも言えるような人物だったと言う。


彼女が住み始めて暫く経ったある日。
彼女の家に回覧板を届けにいった曾祖母が異様な光景を目にした。
庭の真ん中で彼女はしゃがみ込んでいる。
曾祖母は彼女が腹痛でも起こして苦しんでいるのだと心配して駆け寄った。
しかし近づいてみると、どうも苦しんでいる様子は無く…
彼女は懸命に何かを地面に降り掛けていたらしい。
彼女の足元を見ると、高さ十センチほどの大きさの山が出来ている。
その山に何か白い粉を降り掛けているように見えた。
何がしているのか興味を持った曾祖母は彼女にそっと近づいた。
彼女の足元に出来たその山はよく見ると微妙に蠢いている。
なんと、それは大量の蛞蝓が寄せ集められて出来た山だった。
彼女はその蛞蝓の山にパラパラと塩を降り掛けていたのだ。
曾祖母は「ひっ」とシャックリにも似た小さな叫び声を上げた。
曾祖母に気付いた彼女はキッと睨み付け、塩を庭にばら撒き無言で家に入っていった。
庭を見渡すと、塩を掛けられて干乾びた蛞蝓が数え切れないほど散乱していた。
気分が悪くなった曾祖母は挨拶もせず回覧板を玄関先に置いて早々に立ち去った。

「蛞蝓屋敷の蛞蝓女」
いつしか村人達は彼女の事をそう呼ぶようになった。
蛞蝓の殺戮を楽しむ為にあの家に住んだのだと噂された。
きっと彼女は自分の痩せ細った体、ガサガサに乾燥した肌に劣等感を感じているのだ。
だから、水を吸ってぷっくり丸々とした蛞蝓に憎悪を抱くのだと。
彼女は村人達から蛞蝓女として忌み嫌われ、村八分にされて孤立していった。

彼女は働きもせず毎日家に引き篭もっていた。
どういう経緯かそれなりに蓄えはあったらしい。
週に一度ほど町に買い出しには出ていたようだ。
その買い出しの際、村人達と顔を合わす事もあるが…
村人達は村八分の彼女とは目を合わそうともしなかった。


曾祖母は蛞蝓屋敷から近い所に住んでいたので時折、彼女の様子を見に行く役目を任せられていた。
交流を一切取らないのが村八分なので、あくまでも彼女の様子を遠目に確認するだけだった。
生きているか、おかしな事はしていないか、風土病などに侵されていないか…
それはさながら囚人の見回りに行く看守と言ったところだろうか。
元々は余所者である曾祖母にとって村人達の彼女への制裁は行き過ぎてると心の中では思っていた。
しかし、曾祖母の立場では口を挟む事のできない村の問題であった。
曾祖母は自分の気持ちを胸に仕舞い込み、機械的に監視と言う任務を遂行した。
監視と言っても、ひと月に一度見に行く程度なので労力的な負担は差ほど無かった。

ある日の夕暮れ時。
いつもはもっと早い時間に監視に行くのだが、曾祖母は少し遅れて蛞蝓屋敷に行った。
時間が決められていたわけでは無いが、気味の悪い所なのでいつもは明るい内に済ませていたのだ。
蛞蝓屋敷の建つ土地は殆ど日が届かない場所なので、夕暮れ時になると一足早く闇に包まれる。
薄気味が悪いなと思いつつ鬱蒼とした薄暗い森を通り蛞蝓屋敷へと向かった。
遠目で蛞蝓屋敷が見えるようになった辺りで曾祖母はおかしな事に気が付いた。
もう既に蛞蝓屋敷は闇に包まれている。
なのに家には灯りが一つも付いていない…。
そういえばここ一ヶ月、彼女の買い出しの姿を見ていない。
曾祖母は嫌な予感がした。
「死んでいるかも知れない」と。

生死が確認できていない時点で応援を呼ぶと陰口を言われるかも知れない。
そう思った曾祖母は勇気を出して蛞蝓屋敷の玄関に立った。
玄関前で呼び掛けるが応答は無い。
曾祖母の持つ懐中電灯に照らされて引き戸には蛞蝓が何匹も張り付いているのが見えた。
触りたくなかったがグッと我慢して玄関の引き戸に手を掛ける。
昔の玄関は障子や襖のように横にガラガラと開ける引き戸が主流だった。
少し力を入れると引き戸は横にずれた。
どうやら鍵は掛かっていない。
意を決した曾祖母は一気に玄関を開け放った。
手に持った懐中電灯で内部を照らす。

そこに彼女はいた。
懐中電灯に照らされ薄っすらと彼女が見えた。
彼女は玄関で首を吊って死んでいた。
訪問者を驚かせる事を企んだかの如く玄関で首を吊っていた。
曾祖母は足が竦んでその場から逃げる事ができなかった。
彼女の遺体は湿気の多さからか腐敗が進んでいた。
皮膚には蟲が蠢いており、口からは蝿が出入りし、腐乱臭が凄まじかった。

彼女の首吊り死体は、普通の首吊り死体のそれとは明らかに異なる点があった。
首を吊って死んでいると言うのに彼女の足は地面にぴたりと付いている。
もちろん首を吊った時は地面から足は離れていたのだろう。
そうでなければ死に至る事は無いのだから。
なぜ、彼女の足が地面に付いていたかと言うと…
彼女の首がゴムのように伸びきっているのだ。
その伸びた分だけ胴体が下がり足が地面に付いていた。
曾祖母が言うには頭三つ分は首が伸びていたように見えたと言う。
その様はまるで妖怪の轆轤(ろくろ)首のようだったらしい。

首吊り後、放置されて腐敗が進んだ場合…
首が胴体の重みで切れて、頭部と胴体が離れて地面に落ちる事はあるらしい。
だが、首がゴムのように伸びると言うのは聞いた事が無い。
何故、彼女の首吊り死体がそんな非常識な状態になっていたのかは分からない。
後にそれを、蛞蝓の祟りだと村人達が噂したのは言うまでも無い。

足の竦みも収まってきた曾祖母は逃げるように去った。
そして彼女の死を村人達に伝えた。
その後、曾祖母は蛞蝓屋敷に近づく事は無かった。
村の男衆だけで何日か掛けて後始末をしたらしい。
彼女には身内がいなかったのか葬儀も行われなかったらしい。
墓を建てた様子も無く、遺体も何処にどのように埋葬されたのか知らされなかった。
処理に当たった男衆もそれらについて語ろうとしなかった。

暫くは蛞蝓女の話題で村は持ちっきりだったが…
半年もしない内に村人達の話題になる事も無くなった。
その後、蛞蝓屋敷は完全に放置され、蛞蝓屋敷も蛞蝓女も村人達の記憶から消えていった…。


しかし、曾祖母は悔いていた。
本当にこれで良かったのか…
何かしてあげられなかったのか…
せめて供養くらいはしたかったと…。

これは曾祖母の見解である。
彼女は蛞蝓を殺してはいなかったと思うと曾祖母は言う。
蛞蝓屋敷の庭で干乾びた蛞蝓を見たがそれらは僅かに蠢いていたらしい。
湿気の多い土壌なので、あのまま放置すれば蛞蝓は湿気を吸い元に戻るだろう。
彼女の足元に山のように積まれた蛞蝓も家の中にいた蛞蝓を寄せ集めたものだったかも知れない。
家の中は入ってくるなと言い知らしめる為に塩を掛けていたのでは無いだろうか。

村人達は彼女が蛞蝓を殺戮する為にその家に住んだのだと思っていたようだが…
曾祖母は彼女があの家に住んだのは別の理由だと考えている。
彼女は遠目から見ても分かるほど極度の乾燥肌だった。
多分、アトピーのような慢性の皮膚炎に患われていたのだろう。
だから、年中湿気の多いあの蛞蝓屋敷に住んだのだと思う。
曾祖母はこの見解を村人達に伝える勇気が無かった事にずっと悔いを感じていた。
伝えても何も変わらなかったかも知れない…、でも何か変わったかも知れない…と。


曾祖母の話はここまでだ。
当時の私には何故、曾祖母がこのような話をしたのか分からなかった。
小学生の私に対して過激すぎるほど生々しい表現でその話を語った。
私は日本昔話程度のノリで聞いていたと思う。

「蛞蝓屋敷はまだあるぞ。」
話し終えた曾祖母は最後にそれだけ付け添えた。
その年の暮れに曾祖母は息を引き取った。
結局、この昔話が曾祖母との最期の思い出となった。


それから数年後。
私が高校に入学した年のお盆の事。
私達家族は曾祖母の田舎へ墓参りに行った。
曾祖母の命日は既に七回忌を迎えていた。

ふと、曾祖母が話してくれた昔話を思い出した。
曾祖母が最期に話してくれた蛞蝓屋敷の話だ。
そう言えば、曾祖母は蛞蝓屋敷はまだ存在すると言っていた。
何故、曾祖母は私にそれを伝えたのか…
それが妙に引っかかっていた。
昔話の味付け…?
いや、恐らくそんなものでは無い。
もっと何か私に訴えかけるような感じの言い回しだった。

思い過ごしかも知れないが…
曾祖母は私にそこへ行けと伝えたかったのではないかと思った。
もしそうだとすると、私はその場所を知っているのだろうか…。
それとも誰かに「蛞蝓屋敷は何処ですか?」と訊けば教えて貰えるのだろうか。
いや、きっとこの話は他言は避けるべきだと思う。

あれやこれやと考える内に一つだけ思い当たる場所がある事に気付いた。
曾祖母の住んでいた家に面した道路。
曾祖母の家は山の麓に建っていてその道路で山を登っていく事ができる。
少し山を登ると普通の人は見落とすであろう細い脇道がある。
その脇道は林道になっていて私は少しだけ奥に行った事がある。
曾祖母の家からは徒歩5分程度のところにある脇道である。
徒歩5分と言うと都会人には結構な距離だと感じるだろうが…
この村で徒歩5分は家一件分の距離としても近い方だ。
それだけ隣家との間隔の広い寂びれた農村なのだ。
曾祖母が蛞蝓屋敷に見回りに行っていたくらいだ。
蛞蝓屋敷が曾祖母の家からそう遠く無いのは間違いない。
だから、その脇道が怪しいと睨んだのだ。

私がその脇道の奥に蛞蝓屋敷があると思ったのには他にも理由がある。
それは「自殺」と言うキーワードの接点だ。
その脇道、少し奥に行くと少し開けた広場があって大きな石碑が建っている。
実はその場所、私の親戚に当たる叔父が草刈り鎌で自らの首を切り裂き死んだ場所なのだ。
その自殺があって以来、私にとってその場所は恐ろしい場所として心に深く刻まれた。
それだけでもその場所に近づくのを躊躇するには十分な話なのだが…
それ以外でもそこでは数年に一度の割合で首吊り自殺がある場所だと言うから更に躊躇する。
人目に付かない場所など幾らでもある田舎なのに、何故にその場所を選ぶのか…。
何か得体の知れない場所なのかも知れないと私は思った。

自殺の多い場所…。
そう、蛞蝓女も自殺で最期を遂げたのだ。
そこに私は共通点を見い出した。
憶測の域に過ぎないが…
私はその場所に蛞蝓屋敷があると確信に近いものを感じていた。
小さい頃に何度か行った事があるものの、叔父が自殺してからは一度も足を踏み入れていない。
話によると脇道を入った奥にある広場の石碑にもたれ掛かるような形で叔父は発見されたらしい。
もちろん草刈り鎌で自らの首を切り裂いた叔父は既に絶命していたと言う。
その石碑だが、小学生の時の私には何が書いてあるか読めなかったと記憶している。


私は意を決し、昼の明るい内にその場所へ行く事にした。
きっと明るい時間なら大丈夫だろう。
そう思って私はその場所へ向かった。
曾祖母の家から歩く事、五分。
道路から脇道に入る。
脇道に入った瞬間…
「昼に行けば大丈夫」と言う私の安著な考えは一気に崩壊した。
樹齢何年だか分からないが背の高い木々に覆われて日の光は殆ど届かない。
真昼だと言うのに明るさは夕暮れ時のようだった。
とてもじゃないが大丈夫という雰囲気では無い。
むしろ何が出てもおかしくない雰囲気だった。
ライトが必要な程では無いにしても中途半端な明るさが余計に怖い。

その脇道を入って奥に進むと例の広場に出た。
高校生の私の背丈でさえ優に越えるほど大きな石碑があった。
小学生の頃の私には解読できなかった石碑だ。
今なら読めるかと石碑に書かれた文字を見た。
しかし、残念ながら高校生の私でさえまったく読めなかった…。
もしかして、これはお経みたいなものでは無いだろうか。
まるで漢文か中国語のように漢字だけが延々と刻まれている。
誰が建てたのか、何の為にそこにあるのか分からない。

私が小学生の頃に来たのは、この石碑のある広場までだった。
小学生の頃から既に気付いていたが、ここから更に奥へと続く道がある。
しかし、当時の私に一人でその道を奥へと進む勇気は無かった。
正直なところ、今でも怖い…。
広場は多少空が見えるのでそこそこ明るさはある。
しかし、その奥へと続く道は木々が所狭く鬱蒼としている。

私は暫く広場で奥に進もうか悩んだ。
この広場も自殺が何度もあった場所だと考えると結構怖い場所である。
つまり、この広場にいる時点で怖いわけで、広場にいても奥に進んでも怖いものは怖いのだ。
半ば無理やり自らを納得させて、私は奥へ続く道に足を踏み入れた。
転落と蛇に気を付けながら暗い細道を奥へと進んだ。
人が通らなくなって久しいのか腰の高さほどまで雑草が生い茂っていた。

広場から3分ほど歩いたところに、それはあった…。
散乱した木の柱、瓦、茶碗などの陶器や家具と思われる残骸。
完全に倒壊しているが、ここに家があった事が窺える。
その残骸の散らばるちょうど中心部あたりだろうか。
石造りの何かが見える。
少し近づくとそれが何か分かった。
それは井戸だった。

井戸を見つけた瞬間、私はギョっとした。
井戸に縁に手が乗っかっているように見えた。
白い手が井戸の中から出ていて縁を掴んでいるように見えたのだ。
よく見るとそれは手では無く、木の枝に絡まった薄汚れた布のようなものだった。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
怖い怖いと思えば風に揺れるススキも幽霊に見えるのだと。
まさにそれを地で行く事をしてしまった自分に笑いさえ込み上げた。

と、その瞬間!
井戸からヌゥっと何かが出てきた。
あれは…
手…!
人の腕…!
また見間違い!?
いや、見間違いでは無い。
それは間違いなく人の手だ。
その手が一瞬だが「おいでおいで」と手を振ったように見えた。
そしてスゥっと井戸の中に戻っていった。

ああ、ついにこの瞬間が来たのだと思った。
実はこういう事は想定内だった。
この場所があの蛞蝓屋敷であるなら、何も起きないはずが無いと。
ここに訪れる前からそう腹を括っていた。
そして今見たモノはあからさまにこの井戸には何かあると言っている。
そう、私はもう井戸の中を見るしか無いのだ。

恐怖心が無かったと言えば嘘になる。
覚悟はしていたと言え、その井戸を覗くのは怖い。
勇気を振り絞り、一歩一歩、私は井戸に近づいた。
井戸の目の前まで着いた私は恐る恐る井戸の中を覗いた。

井戸の中を覗くと…
闇の底に薄っすらと女の顔が見える…。
最初、私はそれが死体だと思った。
しかし「女の顔」と判断できる死体がここにあるはずが無い。
その事に気付いた瞬間…
にゅうっと井戸の底から湧き上がってきた。
私の顔めがけて、まるで首が伸びるように、その女の顔が。
私は腰を抜かしその場で尻餅を付いてしまった。


蛞蝓女の末路が見えた。
そうか、彼女はここに捨てられたんだ…。
葬儀もしてもらえず、墓も造ってもらえず。
彼女自身は村人の誰かに危害を与えたわけでもない。
ただその容貌と奇怪な行動が忌み嫌われただけなのだ。
上手く言葉にできず、上手く交流ができず。
ただそれだけの事なのに…。
それは死んでまでぞんざいに扱われる理由にはならないのに。
彼女は捨てられるように、この井戸に葬られた。
彼女を死に追い遣ったのは村人達自身かも知れないのに。

彼女の思念がここに自殺志願者を惹きつけるのか。
それとも彼女の呪いが村人達の子孫を自殺に追い込むのか。
そもそも私も子孫に当たる訳だからここにいるのは危険では無いかとも考えた。
色々な思惑が頭を巡るが、私には答えを見い出せなかった。


一旦、私は曾祖母の家に帰った。
そして物干し竿とシャベルを持ち出した。
再度、私は蛞蝓屋敷跡の井戸へと向かった。
井戸に着いた私は物干し竿の先に紐を使ってシャベルを括り付けた。
柄の長いシャベルの完成である。
それを使い、井戸の底を漁った。
井戸の底に溜まっていた土をシャベルに掬い上げた。
近くに転がっていた割れていない陶器の入れ物にその土を入れた。
その土の詰めた陶器を川に持っていき、土を陶器ごと川に流した。
なんとなく思い付いたからやってみただけである。
供養のつもりでやったのだが、実際に供養になったかは分からない。
最後に近くで摘んできた花を井戸の前に添えた。
私一人で出来る事はこのくらいの事だろう。


曾祖母は他界する間際に蛞蝓女の話を私に聞かせた。
懺悔に近い心境で曾祖母はその話をしたのではなかろうか。
古い人間は村の戒律を破る行動に出るのは難しい。
しかし戒律を知る者がこの世にいなければ或いは…。
曾祖母は年齢的にもその話を知る最期の当事者だったはずである。
最期の当事者であったからこそその話ができたのだと私は思う。
私は曾祖母に託された使命を全うできたのだろうか。
少なくともそれ以降、十年以上は経つがあの場所で自殺を図った者はいない。
曾祖母の望む形になったのだと信じたい。

ただ…
今こうしてこの話を他言してしまって良かったのかは疑問が残る。
この話は葬るべき話だと認識しているので地名などは一切明かすつもりも無い。
気掛かりなのが、この話を執筆中に何度と無く聞き覚えの無い女性の声を聞いた事だ。
万が一、この話を読んで体調不良など起きた場合は塩で清めて欲しい。
下手なお払いやお札より塩が効果的だと思う。



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